タイトルは、
わたしの子育ての指針であり、また人生の指針でもある。
教育とは、
というと大仰かもしれないが、現代の教育の大前提は、知識や、何かしらを教えよう、としているように感じる。
???それ、どういうことですか?
というと、
赤ちゃんから、なにも無い状態から、どんどんとプラスをしていこうという発想だ。
言語を覚え、運動をさせ、ご飯も、習い事も、
しっかり与えることによって、良い成長、良い成果につながる、と誰しもが信じているように思える。
皆さんも、そうではないでしょうか?しかし、それはいったい誰が決めたのでしょう?
いや、まったく否定をするつもりはない。言語を教えたり、運動したりは大事である。
ただ、そもそもの考え方として、プラスをしていく、ということは、
”足さないといけない”と、自然とそういう形になってしまっている事なのだ。
足さないといけない、と勝手に思い込んでいると、
元々あるものが見えなくなる。なぜなら、足りない、に頭が支配されてしまうからである。
皆と一緒でなければならない。
ちゃんと話せなければならない。
勉強できないとならない。
社会に通用するようにならないと、ならない。
色んな力を付けさせよう、足そうとする。
そうでなければ、社会で生きていけない、と思っている。どうしてこの子は、と思ってしまっている。
しかし、だ。
その子に元々あるものを活かす、
という考え方はどうだろうか?
例えば、やさしい子はどうだろうか。
やさしさは間違いなく才能だ。どんなに道徳を教え込んだとしても、ついつい悪い気持ちや、他人を貶める行為に出る人。
大人でも見かけないだろうか?そこから比べるのも何ではあるが、すごい才能では無いかと私は思う。
その優しい子に、何かできるように、勉強をもっと、というのは、
お前は弱いから強くなれ、と言っているようなもので、
元来持っている、やさしさ、という才能を真っ向から否定しているのだ。
気付かず、大人はそれをやってしまう。いや、大人と言うか社会の流れ、風潮がそうさせる。
しかし、子供たちが生きるのは未来だ。私たち大人が過ぎ去った世を動かすのが、
今の子ども達だ。その時は、今の様相、考え方と違うはずなのだ。
だから、本来であれば決定権や、未来への感性は子ども達にあるべきである。
しかし、子供には、経験と情報があまりにも足りない。だから、補足やフォローはぜったいに必要なのだが、
果たして、現代の教育はフォローになっているのかな、と思う所がある。
やさしさ、というものを例に出したが、他にも様々、その子の個性、才能というものがある。
もう一つ例えてみる、不登校だった私の例だ。
私も、やさしさ、正義感、というものが強かったように思える。
恐らくであるが、不登校の子全てとは言えないが、人間性、というものを大事にする子、長けた子が多いように思える。
しかし、それは現代のタイパだのコスパだの、生産性、効率、規模の評価などなどを嬉々としているような世の中には、真逆のものである。
そこに加えて私は、とにかく人の言う事を聴くのが嫌いだった。
自分で決めたいのだ。ただ、自信も無いし、知識も無いし、どうやったら自分で決めて、自分で責任を取れるか分からなかった。
それを教えて欲しかった。やるのは自分でやるので。
自分でやって、自分で納得して、自分で誰かの為に役に立ちたかった。
それは、やれと言われてやるようなものではない。
学校では、悉(ことごと)く歯向かった。そして、理由を説明してくれる大人もいなかった。ただ、弾圧しようとしてきただけであった。
その子の個性を見たり、何がしたいのかを聴くのは容易ではない。
なぜなら、その子にも分からないからだ。そして、自信もないものだから、聞かれてもプライドや不安で、話さない。
だから、一緒に考える気持ちで、質問をしてあげるのが大事だ。決して答えや解決を目指してはならない。
また、質問をする方は、自分も向上していないとならない。これは子供には分かる。
上からただモノ言うだけの、人生や社会の傀儡のような存在か。
それか、自分の人生を模索しながら、”活きて”いる者。モノか者か、おそらく自然と判断している。
その理不尽に耐えられ変化が出来てしまった者、どうしても納得がいかない者。
後者が、わたしであった。それゆえ、早くにして、当時、社会不適合者と言われていた、不登校になった。
しかし、その15年後には、経営者となり、社長と呼ばれるようになる。
社長とは基本的に、人の言う事を聞いてやっているようではダメである。自分で仕事を取ってきて、自分ですべてを決定し、すべての責任を取る。
無論、本当にすべて自分の力で、というとそうでは無いのだが、その割合は非常に大きい。私はおそらく、自立、自我、責任感、という才があったのかもしれない。
そこに来て、皆と一緒に、とやがてそうなるような人に、そう教えるのは愚策である。しかし、そこを見てくれた大人は一人もいなかった。
これは、後になって分かる話ではあるのだが、
その人に合った学び方や進み方があるのではないかと、自分の半生をみて思うのだ。
私は、とにかく何が自分は違うのか?誰も証明しないのに、否定をしてくる。
しかし、何が正しいのか?私は必要なのか?何ができるのか?
ずっと20代半ばまでそれを悩んでいた。
ここで、タイトルに戻るが、やはりずっと、
”自分は足りないので何かを足さなければならない”
という思想に取りつかれていたように思う。それは単に劣等感しか生まない。劣等感は、規模を欲しがる。それを埋めるために。全部、自分に所持、保有をしたくなるのだ。
自分の施設を強化したい。会社を大きくしたい。良いサービスを内製化したい。
かつての私もそうであった。劣等感は人を強くする面もあるが、知らないうちに、それを埋めようと自然と発想が働く。
ここはあえて否定する。そうではならない。
足りないものを埋めてくれるのは、他人様である。もっというと、社会や自然である。
弱いから、人は託すのだ。自分の代で無しえないからこそ、ずっと人類は続いてきたのだ。
認めて、与えて、の余地が無ければ、そもそも、それをする事すらしない。
それを、不登校の子たちは万全に備えていると私は思っている。
誰にも負けない、いや、勝ち負けではない、人の、未来の希望を持っている。
非常に分かりづらい、気づかれにくいものだからこそ、今は、同志として、
一緒にじっくり、ゆっくり、育んでいきたいと思う。私も常に、最先端を意識して一緒に成長していきたい。
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このお話しは、ぜひ何度も読んでみてください。
一回では、人の脳には入っていきません。7回は必要です。流し読みでも構いません。
心の深層で理解していけると嬉しく思っております。ほかのブログもぜひご参照ください。