不登校の子に多く見受けられるのが、
『考える』という点だ。
学校に行かなくなれば、自ずと時間が増える。
その中で生まれる行為が、考える、という事である。
いや、学校に行っている子でも考えてはいる。
授業について考える。友達について考える。ゲームやお菓子について、など様々考えている。
しかし、根本的な違いがある。
それは、何について考えたらよいか、分からない点なのだ。
不登校の場合、誰かに何かを指示されることがなくなる。逆を言うと、学校には決まったコンテンツがあり、皆、それを追いかけている。教師も然りだ。
決まったコンテンツを失うと、思考が非常に難しくなる。
目的が定まらない思考は、基本的に最初はネガティブな方向に流れる。
自分が悪いのではないだろうか?間違っているのか?この先どうしたら良いのか?
おおよそ、このようになる。だから、人は、決まったコンテンツや決まりの中で動きたいし、自由な創造を嫌う。
その先に恐怖が待っているのを、本能的に知っているのだ。
しかし、不登校の子ども達には待ったなしにコレが来る。
強制的に、”自分”と向き合わざるを得なくなるのだ。この、自分と向き合う時間が長くなると、それが習慣になる。
ここで、自分に取り込まれてしまう人。自分と戦ってコントロールできる人、の2方向に分かれていくのだが、圧倒的に前者が多い。
なぜ前者が多くなるのかと言うと、理解者と応援者がいないからだ。親は当然ながら心配し、見守りたいと思うのですが、これらに該当しないケースが多い。
心配すると、心配、というリソースが思考に入る。すると現実の事象や行動が良くない流れに変わっていく。
この悪循環が多いのだが、我が子が不登校になって狼狽し心配するのは当然でもある。つまりは、そのような場合は親にもケアが必要で、最終的には思考の変換も必要となる。
そこで、不登校以外の話にも振っていきたい。この話は何も、不登校の子だけの話では無いからだ。
大人であっても、この”思考”についての課題はある日、急に襲ってくる。
自分が正しい、と思っていたことを否定されたとき。新たな創造性を求められたとき。
例えば、不登校の話が出ているため、学校を例に出そう。
学校を一生懸命、良くしようとしている先生がいるとする。しかし、不登校は生まれ増え続けている。
なぜだろう?どうしたら良くなるだろう?考えて、考えて、自分なりの形を考える。
よし、決めた、と考えた結論を実行に移そうとする。そして、周りに伝えてみる。
しかし、思った反応と違う。もしくは、何か自分で違和感を感じる。新たな世界観や考えの違いに直面する。そして、また考える。
考える苦しさは、確実に心身を悪くする。やる気の低下、だるさや頭痛、目標の喪失。
不登校であれば、起立性障害、と呼ばれる症状に近い。風邪じゃないかと最初は思う。現実、熱が出る場合もある。
そのくらい、暗闇の中の思考はつらい。”いまあるもの”への思考に、すぐ逃げたくなる。
しかし、それではダメなのも分かる。自分から逃げている。
現実世界での努力、修練もあるのだが、思考の世界でもそれはある。自分と向き合い、思考を上に突き破るのは、非常に苦しく困難だ。それでも考える。
ずっと考え続けていると、ふっと気づく瞬間がある。自然の中を歩いているとき、人に何か言われたとき、本で良い文章と出会ったとき。
その瞬間は人によって様々だろうが、考え続けた者だけが、パッと気づく。
先ほどの学校の例であれば、形をどう変えよう、システムをどうしよう、そういう思考から離れるはずだ。
なるほど、不登校の子たちと自分は、いま一緒のように悩んでいるのだ。この気持ちが分かれたのがありがたい。
答えは、無いから面白いのだ。今を生きるから、未来が分からないから、人間は面白いのだ。
例えばであるが、このような”よく分からん”答えに辿り着くはずだ。
不思議と、自分の中に、答え、というか気付きが生まれると、ふっと体も心も軽くなる。さらに不思議と、色んなものが入ってくるようになる。
逆をいうと、思考の壁は、現実にも壁を生んでいる。考える前の自分は、もしかしたら見えない壁を持っていたのかもしれない。
わたし自身も、今まで色んな事を、それこそ死ぬほど考えてきた。不登校の時も、山ほど考えた。
何が正しいのか?どうすれば乗り越えられるのか?
最初は、自分のこと。それが分かるようになると、お客さんや、周りの人の事。人の事に関しては未だに難しい。今でも様々考える。
不登校の子ども達、家庭について、その課題に関わる人たち。
どうやったら良くなるか?変わるのか、伝わるのか、教えられるのか、常にひたすら考えている。
不登校について聞かれる事、求められる事があるが、正直を言うと答えたくない。わたしも模索途中で、苦しみながらも解を出している途中だからだ。
ただ、この苦しい苦しい、自分と向き合って考える、という先には、必ず創造性という宝が見つかる。
自分で考える力を付けましょう、などと教育界一般で言われているが、何を何を、そんな生易しいものではない。用意されたコンテンツについて自分で考えてみようレベルの話では無い。
創造性の根本的な課題、『自分の人生を、自分で考える』ということを、まずほとんどの大人がおそらく出来ていない。
無知の知というが、まさにそこに気づくのが、最初の思考のように思えるくらいだ。
この恐ろしい世界線を、不登校の子たちは、小学校中学校の年齢で、”こんにちは”せざるを得ないのだ。
そしてまた、この考えには答えが無いため、子供たちは話さないし話せない。だから、親や大人の理解がズレるのだ。
子ども達が理解して欲しいのは、話の内容や今の悩みを理解して欲しいわけでは無い。
こういう状態や状況を理解して欲しいのだ。わたしは、不登校の時に考え続けてきたし、それで今があると思っている。良かったと思っている。
だから、話も聞くし、相談にも乗るが、否定も肯定もしない。ただ、考えていることと、その時間が素晴らしいと単純に思う。
ちなみに、この思考の苦しみに関して、少しラクにするのを早める方法がある。
それは、自分よりも先駆の人であろう存在を探して、その人の思考を借りることだ。これは、いまあるものにすり替えるわけでは無い。
壁打ちをしたりなどすると、思考がどんどん変わっていく。最初は手習いでも良いが、確実にオリジナルの思考に変わる。
あとは、逆に思考をしなくても良い状況を作ることだ。全力疾走しているときに、夕飯どうしようか考える人はいるだろうか?
おそらく、無理だ。脳の構造上、運動時には脳幹、という部分が強く働く。脳幹が働いているときは、思考部分の大脳新皮質が弱まる。
脳幹は、本能や感性に強く影響を受けるため、どうしたらそういう外部刺激を生み出せるかを考えるのも良いように思える。
さて、話が長くなったが、私なりにまとめると、思考は非常に良いものだと思う。
真剣に向き合っている人、子ども達は、たいへんに苦しいと思う。ただ、その先に自分なりの宝がある。そしてそれは、周りの人にとっても良い影響のある宝と成り得る。
この先に必要なのは、AIに負けない、そして自分の人生、人間の質を高めるための『創造力』である。創造力とは、何もない、暗闇から光を作り出す力である。
誰かが作って用意してくれる、もう”すでに何かがある”世界線は終わり始めている。
これからは、自分で自分の人生を作れるのだ。そのための思考の鍛錬が、来る人には来る。
決して、その人の思考を否定しないで欲しい。自分の世界観を押し付けないで欲しい。
苦しそうに見えるが故、何とかしてあげたくなるのは分かる。何とも出来ない苦しさも分かる。
ただ、その人を変えず、良い環境や状態を一緒に探してみて欲しい。
そしてすぐに解決はしないでしょう。しかし、その人に出た答えが、いずれ早晩、周りを解決に導くやもしれません。
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このお話しは、ぜひ何度も読んでみてください。
7回くらいが理想です。流し読みでも構いません。
心の深層で理解していけると良い流れが生まれるかもしれません。ほかのブログもぜひご参照ください。